昭和四十八年十一月五日 朝の御理解
X御理解 第十八節 「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに          参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が          生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。み          んなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」
 生神という、お道では言われます。いろいろな説明がなされております。その生神とは何か、特別の神通力を持った人が、あの人は生神様のようなというような、人じゃというように生きながらにして、神様のような特別な働きを持った人を生神というふうに言っておったんですけれども、教祖様は生神とは、ここに神が生まれるという事だとおっしゃった。
 あの人は生き仏のような人、生神のような人という意味での神様ではなくて、生神とは此処に神が生まれるという事だと。いわゆる生神の誕生という事。
 ならその、此処に生神が生まれるという事は、どういう事かというと、真に有難いというものが、凝り固まったようなものだと思います。
 真に有難い。それに固まっておる。くずれない。それが教祖様は生神とこういうふうにおっしゃったんじゃなかろうかと思うんです。
 だから真に有難いとこう感ずるという事、勿論、真に有難い、只、おかげもうもらうから有難い。物をもらったから有難いというのじゃない。
 真の有難いという事、という事が生神。そういう心の状態を、だから広げて行くという事だと思うんですけれども。
 その生神の境地というのは、天地の親神様、いわゆる天地の神様、皆も神の氏子じゃとこうおっしゃっておられる。だから天地の親神様に対する、氏子。そんならその天地の親神にたいするところの子神といった方がよくわかるかもしれませんね。
 氏子というのではなくて、子神。大きい神様と小さい神様、それが天地の親神様と氏子の関わり合い。関係というのは、氏子と神様は母子(親子)のような関係だとまあ、説いとられますけど、生神というのは、天地の神様といつも交流する、同じ同質のもの。それが私は、私共人間を神という場合、天地といつも交流しておる心。 交流する心と申しましょうか。いうなら、神様が水であるならば、私共もやはり同質の水であるという事なんだ。ですから同じ水と水ですから、合わせれば一つになる。水と油だったら一緒になりませんよね。そういう私は、状態を生神という。天地に通う心の状態を私は、生神とこういう。それを教祖さまの場合なんかは四六時中、天地と交流しておられたという事になるです。
      ※      ※      ※      ※      ※ 昨夜の御祈念の後に、昨日は末永先生が当番でした。後でお話しをしとりましたが先日から神様から、和合という事を頂いた。平和の和と合楽の合ですね。和合。
 それが此処の日々をもう、特に人間関係に於いて、この和合という事を一生懸命精進さして頂いておるという話しを致しておりました。
 いわゆるその和合という事が、いうなら、天地と和合すると。いうならば、天地との調和というか、天地との交流を大調和心といったような事を申します。
 だから人間同志の事を和合とか、只、調和心とかも言える、とも言えるとも思います。そういう心の状態が私共は誰とでも、あの人とは仲良うするが、この人とは仲良うしろごとないとかというのでは、もうすべての人と和合する。
 調子が合わせられる。それは人だけの事ではない。一切のものとも同じ事がいえる 同じ事柄でも同じ事が言える。物との調和、事柄との調和、人との調和、そういう例えば何とでも調和の出来る心を持って天地と交流するおかげ。そういう私は状態を私は生神。
 皆もそのようなおかげを受けられる。いわゆる、神の氏子だから。ところが同じ水の質があったにしても、こちらのは黒々濁っておる。まあいうなら、どろどろしたものだというような事は、いけませんからやはり、天地が清い水であるならば、私共も清い水である程の精進をさしてもらう。又その清い水というか、その清い心という事にならなければ、誰とでも、何事にでも、又は物とでも調和する事は出来ません。
 和合するという事は出来ません。これは楽器とでも同じ事、その調子が合うた時によい音色が出てまいります。もうそれこそ妙なる音色です。調子が違っておるからいわゆる雑音のような嫌な音が出るのです。
 真に有難いというような心は、そういう一切のものと和合する。まだ一切のものと和合しようと精進する。いうなら、それを信心修行というてもよい。そこから和合する、交流する、調和が取れる。そこから生まれてくるところの、えも言われぬ素晴らしい妙音。まあ素晴らしい、只、只、恐れ入ってしまうというようなおかげの音色が奏でられるように出てくる。おのずと。
 本当に私共が、もう、人間関係に於いてもです、親子ですら、夫婦ですら、兄弟ですら和合してない。まず身近なところからです、和合するというおかげを頂かねばいけない。それから自分の周辺に起きてくる、その問題との和合、そこにはもう問題が問題でなくなってくる。一切のものと和合する。いうなら金なら金と和合する。
 金との調和がとれる。そこに例えば何ともいえない、音色というかね、必要なものが必要に応じて、お金ならお金でも頂けるようなおかげが頂けれると思うのです。
 だからそういう働きを、現す事の出来れる私は、人を生神というのじゃないかと思います。教祖の神様は、そういう方だった。しかもそういうおかげは、お互いの精進いかんによっては、誰もが受けられる。本質的に生神というものの内容というものを頂いておる神の氏子。だから天地の親神様が親であるなら、私共は子神である
 信心というのはわが心が、神に向かうのを信心じゃとおっしゃる。わが心が神に近づいていくという事は、いうならば、私共が段々清まって行くという事、同質のものそれが例えば、様々な物を通して、まあ濾過されるとでも申しましょうか。濾過作用を受けて、私共の心が、段々清まって行く。清まって行くところに、清まって行く心がすべての事が・・・・
 これは人との調和とか、和合が出来ないのは、清まってないからですよ。本当に清まったらそこに和合が出来る。
 交流、調和心というものが、自ずと出てくるのだと思います。私共それを頂こうとする精進こそが信心だという事です。
 金光様の信心は総生神を、金光様の信者全部が生神を目指せとこう言われるおる。 すべての物と、事柄と、人と調和する心、そういう心がいわゆる大調和心という事になって行く。天地との交流である
 天地との調和がとれるわけである。そういう状態を私は生神というのだというふうに思います。
 そこで成程おかげが受けられないはずだなあという事を、自分達の心の中に感じさせてもらう。これは、こちらが調和しょうと思うても、相手が悪いから調和出来ないという事は絶対ない。こちらが良うなりさえすれば、調和するという事です。
 相手の人がどんなに、例えば悪人であろうともです、邪悪な人であろうともです、こちらが真心をもって接する時に、こちらの真心が必ず通うという意味の事を申しましょう。だから相手じゃありません。こちらです。
 真心が清まってとでも申しましょかね。相手がこちらから合わそうとしても、向こうから離れて行くというふうに思いますけど、実際はそうじゃない。それはまだ、こちらの真心が足りんのじゃと思うてという生き方で行けば、必ず和合して行く事が出来る。そこに例えば、問題がなくなってくるだけでなくて、そこから良い音色も出てくる。それを私共はおかげだとこういう。
 神と仲良うする信心じゃと、お道の信心は神と仲良うする信心ぞとおっしゃるのはいうなら、天地と仲良うする信心ぞと。仲良うするという事は、いわゆる有難いという心で、交流する事だと。天地との調和、大調和がとれた姿が神と仲良うしている姿である。そこから親のもは子のもの、子のものは親のもの、あいよかけよの交流がなされる。そういう完璧な心を目指さして頂いて、私共日々精進さしてもらう。
 成程、生神への精進であるという事が言えます。そこで私共は大天地との大調和をはからしてもらうその手前のところでです、自分の頂いておる、もの又は自分の周辺のもの、自分にかかわり合いのあるもの、とまず調和して行く事だという。
 末永先生じゃないけれども、和合という事に焦点を置いておる。もうそれに精進さして頂いておると、ああ、ここが和合さして頂かねばならんところだと思うただけで有難い。一日をしめくくって今日も、本当におかげを頂いたという実感が強く頂けれる。それがこの頃は少し楽しみになっき来た。そういう手近いなところからおかげを頂いて行くところに、大天地との調和のいうならば、調子の合わせ方といったものが段々身についてくるようになる。
 金光様の御信心はそこまで、いうならば、私共が生神を目指すというのは、そういう事だと思うんです。そういう生神というか、天地との交流といったような断片的なおかげを、私共お取次を頂いております。
 それはどういう事かと合楽では特にそれをはっきりいえる事は、神様のお働きの間違いないのに恐れ入るという事を、皆が言いますし、事実そういうおかげを受けております。昨日も神愛会で桜井先生が話しておられたが、その前日の事を、神様がつききりについてござるような感じで、例えば反物の図柄といいますかね、絵柄と言いますかそ、そういうものの中から神様が私共にもの言いかけて下さるようてものを感ずる。皆さんそれをいわれますですね。例えば離合した車のナンバ-から自分が飜然と何かを悟らせてもらうような事があるという事を皆申しましょう。
 素晴らしいタイミングとも申します。ですからそれは、どういう事かというと、天地の親神様が私共と仲良うしょうと一生懸命努力してござる姿です。
 それは私共に合わせようとしてござる姿なんです。それをお繰り合わせというのです。それを素晴らしいタイミングというのです。だからもう神様の御働きの間違いなさに恐れ入ったというだけでなくて、桜井先生、それから先がね、私は大事だと思うです。神様が私位のものにこんなに、私と仲良うして下さろうとしているその働きをです、働きとして頂くところから有難い、勿体ないという、その心が生まれてくる。 その心が次のおかげをキャッチして行かねばいけませんよと話しした事でした。
 神と仲良うする信心ぞというて、こちらが本当に、本気で和合しょうとする、すべての、人、物、事柄、と例えばそういう精進をしておりますと、神様の方から仲良うしょうとする働きを感じます。そこに私共の願い、神様の願い、その願いと願いとが交流する。だから親のことは子が頼み、子供の事は親が願うという、願い合い併せてという事になってくる。
 ですから親のものは子のもの、子のものは親のものというようにです、自由自在のいうならばおかげがそこから現れてくるということも道理の上でわからせてもらう。 天地がいうならば、生きてござる。だから生きてござる天地に私共が、生き生きとした喜びの心、それを頂かして頂く為にです、本気で私共が、私共の周辺周囲、すべての、物、事、又は人との和合を願わして頂いて、そこに天地の親神様のそういう心感応ましますところの働きが感じられる。
 生神とはそのうような一つの過程を踏んで、生神の道というのは進めて行くものだというふうに思います。どうぞ皆が生神を目指さして頂くという事は、もう私共の身近、手近なところから、まずはその働きを興して行かなければいけんという事になりますですね。どうぞ。